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被爆エノキ二世のこと

犀川小の被爆エノキ

犀川小学校講堂の横に1本の木があります。
その木には寄り添うようにカンナの花が咲き、このような説明板が立てられています。

 折り鶴が運んだ「 平和の木 」
 この木は、広島で被爆したエノキの二世です。広島の爆心地から約1キロほど離れた元陸軍病院の庭で被爆したエノキ(樹齢300年)は、焼けぼっくいとなりましたが、やがて芽吹き、枝葉を茂らせました。「原爆にもめげずに生き延びたエノキ」も相次ぐ台風に見舞われ、平成2年には枯死しましたが、エノキが落とした実は大地に根づき「被爆エノキ二世」として市民に大切に育てられ平和の使者として全国に植樹されています。
 昭和58年5月、旧犀川町立鐙畑小学校の修学旅行生が平和公園の「嵐の中の母子像」に捧げた千羽鶴 が福田安次さん(広島市在住原爆の語り部)との交流のきっかけとなり、以後広島からは毎月絵本が、鐙畑小学校からは子どもたちの日々の暮らしを綴った手紙が往還することとなりました。それは正に「折り鶴」が広島と鐙畑を飛び交うようでした。
 平成10年3月に鐙畑小学校が廃校になり、一人だけの在校生が犀川小学校に通学することを知った福田安次さんから「これまでの交流と平和の思いを託したい」と「被爆エノキ二世」の寄贈の申し出があり、平成9年12月に、鐙畑・犀川小学校児童の手で植樹されたものです。

 エノキを寄贈してくださった語り部の福田さんは、終戦の年21歳。宇品という港で、軍が使う船の管理をしていたようです。
原爆投下の日、8月6日は月曜日で、朝8時15分はラジオ体操をしている時間でした。
爆心地から4.1キロ離れていたため、福田さんは無事で、 その後 被爆者を船で似島へ渡すことに従事したとのことです 。
福田さんは、 平成18年( 2006年 の聞き取りの中で、鐙畑小学校との交流をこのように話されています。

 昭和58年(1983年)の5月、第7回のフラワーフェスティバルの開会式に平和公園に行き、正面の噴水(ふんすい)の手前、「嵐の中の母子像」の前に修学旅行生が置いていた折り鶴がふと目に止まりました。折り紙ではなく広告の紙で折った鶴で、「福岡県京都郡犀川町鐙畑小学校、生徒、父兄、教職員一同」と書いたリボンが添えられていました。
 そのころ私は58歳になっていましたが、どこか充たされない、何かしたいという気持ちがありましたので、当日会場で企業が配っていた花の種や花の絵はがき、鉄道のスタンプを押したものなどを添えて「広島へ修学旅行に来てくれてありがとう」とその学校に手紙を書いて出しました。
 すると6月の始めごろに返事が来ました。「今まで先輩たちが広島へ行っても一度も手紙が来なかった のに返事をくれてありがとう。絵はがきは先生がコピーしてみんなに配って く れました。私はカラーのが欲しかったけどがまんしました」など、子ども たちのかわいらしい感想文が入っていました。
 その学校は全員で14 名の山の中の小さな学校でした。
 私はそれから毎月2冊、児童書を選んでその学校に送りました。子どもたちからも感想文が届いて交流が始まりましたが、その学校が修学旅行で広島へ来ることになり、求められて子どもたちに初めて原爆の体験を話すことになりました。
私は原爆のことは人に話しても通じないと思っていましたが、子ど も たちからの感想文を読むと、思った以上にわかってくれていました。私の思いの半分でも伝わり、次の世代 に残っていって欲しいと願っております。
(中略)
 私の原爆被爆 体験は被爆という膨大 なジグソーパズルの端っこの 1 つのピースにすぎませんが、 1 人でも多くの方々に読まれることを願っております。

 小さな町の小さな学校とのふれあいから、被爆の実相を 伝える 福田さんの語り部としての活動が始まったように感じました。
被爆エノキ二世のある学校として私たちにできること。それは、これまでの道程を知る・考える・伝えることではないか と思います 。

エノキの様子
エノキの様子
エノキの様子

近隣の被爆エノキ

【旧寒田小学校:築上町】 広報ちくじょう平成21年(2009年)3月号に記事が出ていました。(記事はこちら

エノキの様子
エノキの様子
エノキの様子

【大池公園:上毛町】広島・長崎爆心地中間点上毛町ー未来へつなぐ平和の架け橋事業により、公園内に広島の丘、長崎の丘をもうけ、被爆樹木の植樹を行ったそうです。(記事はこちら

エノキの様子
エノキの様子
エノキの様子