いのちをめぐる物語
福田安次さんのこと
エノキを寄贈してくださった語り部の福田さんは、終戦の年21歳。宇品という港で、軍が使う船の管理をしていたようです。 原爆投下の日、8月6日は月曜日で、朝8時15分はラジオ体操をしている時間でした。 爆心地から4.1キロ離れていたため、福田さんは無事で、その後被爆者を船で似島へ渡すことに従事したとのことです。 福田さんは、平成18年(2006年)の聞き取りの中で、鐙畑小学校との交流をこのように話されています。
昭和58年(1983年)の5月、第7回のフラワーフェスティバルの開会式に平和公園に行き、正面の噴水(ふんすい)の手前、「嵐の中の母子像」の前に修学旅行生が置いていた折り鶴がふと目に止まりました。折り紙ではなく広告の紙で折った鶴で、「福岡県京都郡犀川町鐙畑小学校、生徒、父兄、教職員一同」と書いたリボンが添えられていました。 そのころ私は58歳になっていましたが、どこか充たされない、何かしたいという気持ちがありましたので、当日会場で企業が配っていた花の種や花の絵はがき、鉄道のスタンプを押したものなどを添えて「広島へ修学旅行に来てくれてありがとう」とその学校に手紙を書いて出しました。 すると6月の始めごろに返事が来ました。「今まで先輩たちが広島へ行っても一度も手紙が来なかったのに返事をくれてありがとう。絵はがきは先生がコピーしてみんなに配ってくれました。私はカラーのが欲しかったけどがまんしました」など、子どもたちのかわいらしい感想文が入っていました。 その学校は全員で14名の山の中の小さな学校でした。 私はそれから毎月2冊、児童書を選んでその学校に送りました。子どもたちからも感想文が届いて交流が始まりましたが、その学校が修学旅行で広島へ来ることになり、求められて子どもたちに初めて原爆の体験を話すことになりました。 私は原爆のことは人に話しても通じないと思っていましたが、子どもたちからの感想文を読むと、思った以上にわかってくれていました。私の思いの半分でも伝わり、次の世代に残っていって欲しいと願っております。 (中略) 私の原爆被爆体験は被爆という膨大なジグソーパズルの端っこの1つのピースにすぎませんが、1人でも多くの方々に読まれることを願っております。 被爆証言を遺そう ヒロシマ青空の会 第4集より
小さな町の小さな学校とのふれあいから、被爆の実相を伝える福田さんの語り部としての活動が始まったように感じました。鐙畑小学校のこと
温かいお手紙と贈り物をいただき、児童も職員も強い感動で拝見いたしました。校長も長い教員生活の中、こんなことは初めてだと言っております。 鐙畑小学校区は戸数50戸のへき地で、児童数は14名、職員5名の複式学級です。私は5、6年生を担任しています。
4月に5、6年生の修学旅行で広島に参りました。その際、四千羽の折り鶴を持参して、「動員学徒の碑」「原爆の子の像」「教師と子どもの像」「嵐の中の母子像」に捧げました。その中の一連に目をとめてお手紙をいただきましたことは、折り鶴が舞い戻ったような感激でございます。
おじちゃん、順番を待ってスタンプを押したそうですが、くだびれたでしょうね。花の絵も鉄道日本一も中尾先生にコピーをもらいました。うれしかったです。
広島から手紙が来るとは思ってもみませんでした。修学旅行には5、6年生7名と先生3名で行きました。もう一度広島に行って、おじちゃんに会いたいです。
花のフェスティバルはきれいだったでしょうね。おじちゃん、私たちの鶴を見つけてくれてありがとう。
ぼくは原爆資料館を見て、死んだ人はくやしかったろうと思いました。
私たちの学校のよい所は、山に囲まれていて空気のよいことです。おじちゃんにも見せたいです。
原爆ドームが心に残っています。ぼくは本当のことを言うと九州を初めて出ました。
先生がおじちゃんの手紙を読んでくれた時、鶴を作ってよかったと思いました。鶴を見つけてくれてありがとう。みんなで折った折り鶴が帰ってきたと思いました。
鐙畑小と福田さんの交流
文通で始まった、鐙畑小学校と福田さんの交流は、どんどん深まっていきました。後日、福田さんが鐙畑小学校の閉校記念誌に寄せた寄稿では、次のように書かれています。春にはつくし取り、初夏には梅の実の収穫、秋には栗ひろい。その作文が収穫物と共に、宅急便で送られて来ることもありました。昭和60年3月の卒業式には招かれて、初めて鍛畑小学校を訪れました。 昭和60年4月の修学旅行では、6年生3名、5年生2名を、宮島や原爆資料館などに案内しました。 昭和62年5月には、鎧畑の里神楽を中尾先生と二人で見物し、子ども達の家で、次々ご馳走になり、卒業生の家に泊めて頂きました。 昭和63年の修学旅行では、旅行生3名を宮島へ案内しました。この時のことは、翌日の朝日新聞で、大きく写真入りの記事で報道されました。
「いのち」への思い 〜 千通のはがき 〜
福田さんは、苦闘しているエノキの様子を知ってもらおうと投稿記事を書き、昭和62(1985)年8月5日朝日新聞の声の欄に掲載されました。(母さんエノキのページ参照)
ちょうどその頃、昭和62(1987)年の11月、中尾先生に深刻な病が見つかりました。 広島と犀川の交流は言わばまだ始まったばかり、同じ戦禍をくぐり抜けた仲間の病の報に、福田さんも心を痛めたことは言うまでもないでしょう。 福田さんは、「先生との出会いは千羽鶴だった。千の祈りを重ねれば、願いは通じる」と、それから毎日1通ずつ、はがきを入院先の病院へ送り始めました。 孫の成長、庭先でふ化したチョウの話、原爆ドームを囲む柳の絵など、育まれる「いのち」を話題の中心において、それぞれに「エノキはきっと生き返る。先生も病気に負けないで」と願いをこめたそうです。
中尾先生は自身の病名を知っていました。先生は懸命に生き、闘病日誌を毎日ノート一面にびっしり書くほどでした。福田さんのはがきにも六十余通返事を書きました。
平成3(1991)年5月、「広島も修学旅行のシーズンに入ってきたご様子。福田さんは例年通り、新しい出会いをお迎えになるのですね。」4日がかりで書いた便りが中尾先生の絶筆になりました。
翌月6月11日、中尾先生は旅立たれました。福田さん686目のはがきが投函された日でした。
その後も福田さんは中尾先生への感謝の気持ちをこめて犀川の実家にはがきを書き続け、それは中尾先生の1周忌まで送り届けられました。はがきの総数は千四十通にもなりました。
平成9(1997)年7月、鐙畑小学校の閉校を取材に来た中国新聞の記者の質問に応え、中尾先生の奥さんは、大切に保管している約千通のはがきファイルを前に、「夫の口ぐせは『はがきは、まだかの』でした。弱音を吐かず、32キロまで体重が減っても『一緒に広島に行こうな』って。夫は生き抜きました。福田さんとの友情があったからこそです。」と話されました。
そして、折り鶴が運んだ「平和の木」植樹へ 〜
福田さんは、「中尾先生が引き合わせてくれた」と思ったそうです。ただ、その夜、校長先生から平成10(1998)年春「鐙畑小閉校」の話を聞き、驚きました。
平成9(1997)年7月12日、福田さんは久しぶりに鐙畑小学校を訪れました。校門には、以前贈ったキョウチクトウが白い花を咲かせていたといいます。全校児童3人が校歌を歌って歓迎してくれました。 来春、2人の6年生は卒業。4年生1人が6km離れた犀川小学校に通うことになります。
福田さんにとって、鐙畑小学校は忘れることができない特別な学校だったでしょう。 昭和58年嵐の中の母子像で偶然見つけた千羽鶴が鐙畑小のものでした。そこから始まった交流。翌年、中尾先生に請われて初めて子どもたちに被爆の実相を語りました。そして、中尾先生の入院。願いをこめて送り続けた千通のはがき。そして、運命の日、6月11日。
福田さんは、校長先生に「この子たちに被爆エノキの二世を託したい」と率直に抱いてきた思いを語りました。鐙畑小学校の歴史はこの春で終わるかもしれない。でも、エノキの幼木が犀川小学校で根付けば、平和の祈りは未来へつながる。 校長先生は、犀川小の校長先生に連絡をとり、両校児童による植樹ができるよう手配をしてくれました。
広島に帰る前、福田さんは犀川小学校にも寄って、グランドを見渡し、「日当たりがいい。丈夫に育ってくれるだろう」と語ったそうです。